教会誕生秘話

息子の献身を祝った父

神が一人の若き歯科医師を献身へと導いた。それが板橋教会の誕生につながった。誰もが全く予期しない出来事だった。

一九五〇年十二月四日の夜、東京・両国に近い本所緑星教会の役員であり、青年会長として活躍していた三代目のクリスチャン、入江義伸兄が、祈りのうちに献身を決意した(注1)。間もなく板橋教会の初代牧師となる入江兄はこの時三十歳。彼は後に、この時のことを次のように回想している。
「私は宣教師、ミス・モーク(注2)の再臨信仰に励まされ、朝鮮戦争の拡大に促され、伝道者として主に従う決意をした。まず、母から父にその旨を伝えた。すでに三児を抱え、父母の一人息子として責任を負うはずの私の献身は誰から見てもとても正気とは思えなかったことだろう。それでも、父はアブラハムがイサクを捧げるように、母はヤコブをラバンのもとに逃すような心境でクリスマスを迎えてくれた。『神はその独り子を賜ったほどにこの世を愛して下さった』(ヨハネによる福音書三章十六節)というメッセージは両親のこころを貫く剣のようなものであったが、『きょう、ダビデの町に、救い主生まれたまえり』という天使の嘉信に心の慰めを託して献身した息子の前途を祝ったのであった……」。

一人の人間を献身させ給うた神は、すぐにその働くべき地をも備えられた。年が明けて正月早々、入江義伸兄の父である本所緑星教会の入江義次長老と、平山万吉長老が、板橋の志村に療養中の教友、吉川時哉兄を訪問した。二人はその帰途、やはり緑星教会の信徒であった琴錫龍兄宅に立ち寄った。話は自然に入江兄の献身のことになった。その時、琴兄は、自分の家屋が一軒空き家なので、それを当分の間、提供しようと申し出た。当時、本所緑星教会が属する日本基督教団の教会は板橋にはなく、教団東京教区長の金井為一郎牧師は板橋に教会が与えられるよう数年間祈り続けていた。このことを思った入江義次長老は、この地こそ神の備え給うておられる地と確信し、当の義伸兄には相談もせず琴兄と約束を交わして帰宅した。義次長老は、献身した息子に代わり、歯科医師としてもうひと働きする覚悟も固めていた。


(注1)入江牧師は一九五一年十一月十八日付の「板橋教会週報」に「或青年の回心」と題して自らが神に捉えられた一年前の晩のことを記している。以下はその抜粋である。  
「昭和二十五年十二月四日夕拝後、少数の居残った人達と来年度の教会増築について大いに語り合った。午後九時半頃家に帰った。十一時頃か十二時ごろか正確には忘れたが、長い間眠れないのに気がついた。一時ごろかと思うが、胸苦しくなった。胸部と頭部が熱くなった。自分の過去の生活が取りとめなく思い出された。熱烈なクリスト者で教会の指導者である現在の信仰生活に、人の前にはかくしても、神の前にはかくすことのできない罪を指摘された。そしてまさかと思っていた召命が神の声となって私を貫いた。「我に従え」。私は従わなかったら亡ばされると直観した。同時に子供の顔、父母の顔、妻の顔が私の不安と動揺のすべてを語るようにし脳裏に浮かんだ。心が凍りそうになった。「先ず神の国とその義を求めよ。さらに凡ての事はこれに加えられるべし」と何回も繰り返して誘惑を退けた。万一、感情から来たものではないかと反省して見たが、既に出来上がった事実になっていた。いくら否定しても元通りにならなかった。極度の緊張で胃の腑がひきつったようになり、泣きたいのだが涙が出なかった。朝まで祈ったり反省したりして一睡もしなかった。翌朝は平常通りに臨床に従事したが何か御霊につつまれている様だった。確かに一回も経験したことがない激しい衝動を受けていた」。


(注2)ローラ・J・モーク宣教師は、一八八六年、米国オハイオ州ドーバーに生まれ、一九一四年、米国オハイオ州クリーブランドの福音教会婦人伝道会から日本に派遣された。その後、一九五三年に帰国されるまで、四十年近くを日本での宣教のために捧げられた。来日当初、小石川福音教会(後の小石川白山教会)でバイブル・クラスを担当した当時、モーク宣教師に導かれた一人に第一高等学校の学生だった廣野捨二郎氏がいた。廣野氏は東京大学を卒業したのちに献身、本所緑星教会の牧師になった。入江義伸兄は若き日、この廣野捨二郎牧師のもとで教会生活を送り、信仰の訓練指導を受けた。しかし、廣野牧師は、一九四五年三月九日夜の東京大空襲でご子息とともに天に召された。モーク宣教師は、敵国人として終戦まで三年間収容されていた外国人抑留所でこの悲報に接し、声を上げて泣きじゃくったという。戦後、廣野牧師を天に送った本所緑星教会の再建に取り組む入江兄らに、モーク宣教師は力強い霊的な指導を与えられた。

 

 

牧師資格のない牧師

それから二週間もたたぬ一九五一年一月十五日月曜日、成人式の祝日の午後一時から、板橋区板橋六ノ三三九一(現在の板橋四ノ三七ノ三)の琴兄所有の家屋で「基督教板橋伝道所」の開所式が行われた。式は棚橋昂一兄が司会をつとめ、入江兄の妹で、当時東京神学大学一年の入江光江姉の奏楽で始まった。光江姉は、後に板橋教会の牧師となる花房譲次牧師と結婚され、花房光江牧師としてその後板橋教会を約四十年牧会されることになる。奏楽に続き、讃美、聖書朗読、祈祷のあと、本所緑星教会聖歌隊の合唱、ポール・スティーブン・メーヤー宣教師による説教、そして賛美のあと入江義伸兄が挨拶した。挨拶は「まだ牧師でもない自分が教会をあづかる資格があるかどうかわからない。しかし、全力をあげて努力するのでお祈りとご協力をお願いしたい」という主旨のものだったという。開所式では最後に本所緑星教会の岡田実牧師、ローラ・モーク宣教師らが祝辞を述べた。
一月二十一日、初めての聖日礼拝が捧げられた。教会学校の開校式も行われた。午後七時からは夕礼拝も行った。この日から、牧師として何の資格もない牧師と、その牧師を心より信頼し助けた棚橋きみ姉、ご子息の棚橋昂一兄、平山哲夫兄、入江光江姉ら本所緑星教会から遣わされた兄弟姉妹を中心とした小さな群れが歩みを始めた。

礼拝以外の集会も次々に始められた。毎週火曜日夕には聖書研究会が、木曜日夕には祈祷会が始まった。火曜日の聖書研究会が始まる前の時間にメーヤー宣教師によるバイブル・クラスが開講した。また、翌聖日の二十八日の礼拝後、第一回の求道者会を開いた。二十九日月曜日夕には、療養中の吉川時哉兄の経営する志村のベアリング会社で、会社の幹部や社員を対象とした入江牧師による聖書研究会が開かれた。この聖書研究会は約一年間続けられた。このほか、家庭集会が二月だけでも、二月九日の琴兄宅、十七日には池袋の棚橋宅、二十八日には本所の長浜宅と三回行われた。このほかに、五月には成増の長島宅、白山の石原宅での家庭集会が加わった。

一九五一年三月四日付の「板橋キリスト教会週報」によれば、同年二月の平均で朝礼拝に十七人、夕礼拝に七人が出席、教会学校にはなんと七十人が集ったと記録されている。このほか、バイブル・クラスには平均十五人、火曜日の聖書研究会は十人、祈祷会には七人がそれぞれ出席した。生まれたばかりの教会を神は用い、福音が述べ伝えられた。

こののち、六月から西巣鴨の東洋学園幼稚園での聖書研究会、八月からは早天祈祷会、九月からは戸田橋の聖書研究会、十一月からは東京医科歯科大学でのバイブル・クラス、十二月からは家政大学での聖書研究会が次々に始まった。

四月までに、教会員として登録された牧師・信徒は本所緑星教会からの転会者十三人を中心に十六人。五月六日の聖日には初めての洗礼式が行われ、六人の受洗者が与えられた。この結果、信徒数は設立後四カ月にして二十人を超えた。

この間、五月三日には十二人が参加して当時ハイキング・スポットとして人気のあったの稲田・登戸へピクニック、八月六日、七日には、後にユース・ホステルともなった東京・小金井の宿泊研修施設、浴恩館で一泊二日の初めての修養会を行った。

 

 

たった二ヶ月で教会堂を建築

こうした伝道活動の展開にともない諸集会への出席者が増加、やや広めの和室が二間続きであるだけの借り家の会堂は早くも手狭となった。そこで七月、自前の教会堂建築を決意、板橋区板橋町六の三二四〇(現在板橋三ノ三二ノ一)の現在板橋教会が建っている百六十坪(約五百二十平方メートル)の敷地を四十二万円で購入。八月には十月の伝道集会に向けて仮会堂を建てることを決めた。そして、わずか二カ月で約十六坪(約五十平方メートル)の建屋に、塔屋が着いた会堂を完成、十月二十八日の聖日には献堂礼拝を行った。献堂礼拝には雨天にもかかわらず百二十人が出席した。会堂建築費は約三十二万円だった。

翌二十九、三十日の二日間、新会堂で金井為一郎日本基督教団東京教区長を講師に招き「会堂紀念伝道会」と銘打った初の伝道集会を開いた。この集会で「十数人の決心者があり、木曜日の祈祷会には二十二人の集会ができた」と入江牧師は次週の週報に感謝の報告を記している。ちなみに、この会堂の入り口となっていた塔屋の二階は、ハシゴを掛けて上り下りする、一人が入ればもういっぱいの祈祷室になっていた。

十二月二十三日、初めてのクリスマス礼拝には五十三人が出席、幼児洗礼三人を含む十四人が洗礼を受け、八人が転入会した。また、その日の午後開いた教会学校のクリスマス祝会には、付き添いの父兄も含めてなんと二百十人が参加したと当時の週報に記されている。十二月十六日に板橋母子寮でクリスマスを行うなど、教会以外でもイエス・キリストの誕生を祝う集会を行った。

 

 

二人の宣教師の祈りと支え

生まれたばかりの板橋キリスト教会のためには、数多くの方々の具体的な助けが祈りとともに注がれた。

・モーク宣教師の祈り

ローラ・モーク宣教師は、若くして米国福音教会(注3)から宣教師として日本に派遣され、小石川白山教会と本所緑星教会を拠点に伝道活動を行った。モーク宣教師は、入江牧師に大きな霊的感化を与えただけでなく、設立当初の板橋教会を文字通り物心両面から支えて下さった。板橋教会が教会建築のために土地を得たいという話が出た時、すぐに二十五万円を献金して下さった。また、板橋教会設立から二年半、米国に帰られるまでの間、毎月三千円を教会会計に献金し続けて下さった。さらに、板橋教会婦人会の指導もされた。

・メーヤー宣教師の助け

ミス・モークを初期の板橋教会の母とすれば、父として強力な指導をして下さったのがメーヤー宣教師だった。米国の福音教会から派遣され、当時はビショップ(総理)として福音教会の日本宣教の責任者としての地位にあった。板橋教会の設立当初から、牧師資格のなかった入江牧師を助け、洗礼式や聖餐式を執り行って下さった。また教会開設から五年間、バイブル・クラスを夏休みも正月も休まず続けられた。

・本所緑星教会の支え

母教会である本所緑星教会は、入江牧師と共に数人の信徒を板橋教会に送り出したあとも、ことあるごとに、人的、経済的な援助を惜しまなかった。緑星教会の青年会は毎月第四聖日夕礼拝で行っていた証会で、板橋教会の開拓伝道のために熱い祈りとともに献金を捧げてくださった。また、平山万吉長老や、入江牧師の父、入江義次長老は五年間、毎月定例献金を捧げて板橋教会の会計をうるおしてくださった。

 このように多くの方々の祈りと具体的な援助が、豊かにこの小さな何もない開拓教会を支えた。その結果、開所式が行われて半年後の七月には、自前の敷地を取得、十月末には献堂式と、神のご計画が次々と実現されていった。会堂はその後、一九五二年六月と一九五五年七月にそれぞれ増築、当初の二倍ほどの広さになった。このうち、五二年の増築時には日本基督教団から三十五万円の援助金を受けた。

 無資格であった入江牧師も、初めてのイースターを迎えた三月二十五日までに日本基督教団の補教師資格を得、六月四日の淮允式で正式に補教師となった(注4)。新しい教会の牧会をしながら、全くの独学で猛勉強をした成果であった。この結果、板橋基督教会は日本基督教団の第二種教会となり、八月十二日に「板橋教会設立式」を行った。入江牧師は、さらに三年後の一九五四年十月に日本基督教団の正教師資格検定試験に合格、十一月二十九日、田園調布教会で按手礼を受け正教師(牧師)となった。

板橋教会の信徒数は創立から約三年たった一九五三年のクリスマスに、のちに江戸川台教会の創立に力を尽くされる箕浦辰夫兄ら六人の受洗者が与えられて百人を超えた。創立した一九五一年に年平均二十人だった朝礼拝の出席者は、一九五二年には三十五人、五三年は四十人、五十四年にいったん三十人に減少するが、五五年には再び三十七人に増えた。


(注3)米国の福音教会(エヴァンジェリカル・チャーチ)は、その後、同胞教会(ユナイテッド・ブレズレン)と合同、さらにメソジスト教団に統合された。この時、合同に反対し、福音教会としての独立を維持した群れが、現在、板橋教会が所属する日本キリスト合同教会と牧師の相互訪問やホームステイ・プログラムなどで関係の深い北米福音教会である。

 

4月の月主日礼拝

4月7日(日)

「愛にとどまる人は」

              臼田 尚樹牧師

 

4月14日(日)

行きなさい、これからは」

       臼田 尚樹牧師

 

4月21日(日)

「神のわざが現れるため」

       臼田 尚樹牧師

 

4月28日(日)

「良い羊飼いに導かれて」

          臼田 尚樹牧師